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オリンピックの思い出

 私のオリンピックの記憶の中で、鮮烈なのは1980年の、レークプラシッドオリンピックのスピードスケートのエリック・ハイデンです。5種目完全制覇を成し遂げたのです。距離のスペシャリスト化が始まっていた中、空前絶後の記録でありました。まだ、室外リンクというか、湖のようなところで競技をしていたような記憶があります。
 1972年のミュンヘンオリンピックではマーク・スピッツが自由形、バタフライ、リレーなどの7種目で金メダルを獲得し、かつその全て当時の世界記録をマークしました。
 今回の北京オリンピックの注目は、マイケル・フェルプスです。前回アテネでは6個の金メダルをとり、そのスピッツの7冠越えを期待されています。彼は背泳ぎも金メダルを狙えるようですが、今回はあえて挑戦しないようです。
 我が日本の最多金メダリストは、体操競技の加藤沢男選手です。五輪通算で日本選手最多となる金メダル獲得数は8個、銀と銅を含むと12個のメダルを獲得しています。特に、個人総合のオリンピック2連覇(メキシコ、ミュンヘン)は見事でありました。当時の体操競技は日本とソ連と競い合っていた時代であり、競技場の外でも様々なかけひきがあったようです。
 体操競技と言えば、1976年、モントリオールオリンピック、体操団体での5連覇が思い出されます。私のヒーローは五十嵐久人選手です。当時の男子団体は、代表選手は7人選べますが、出場するのは6人で、上位5人の得点で競うこととなっておりました。要するに1人のミスは許されるのです。
 五十嵐選手は7人目の補欠選手でした。よほどのことがなければ出場機会はありません。しかし、運命のいたずらでしょうか、エースの笠松選手が大会直前に虫垂炎にかかり、急遽出場機会が廻ってきたのです。ソ連にリードを許し、迎えた3種目のつり輪で、藤本選手が右足を痛め途中棄権してしまいました。日本チームはギリギリの5人となり1人のミスも許されない事態に陥ったのです。
 後日談ですが、負傷した藤本選手はケガを応急措置して、その後の種目に出ようとしていたのですが、何者かに医務室の外から鍵をかけられ、軟禁状態にされたそうです。国際社会とは、げに恐ろしきところであります。
 我らが五十嵐選手は、その後も淡々と演技を進め、最終の鉄棒で、屈伸と伸身後方2回宙返りの離れ業を決め9.85の高得点をマークし見事大逆転の金メダルにつなげたのです。結果的に2位ソ連との差はわずか0.4点差でありました。
 これほどの窮地に追い込まれながら自分の出来る最高の演技を淡々とやり続けた日本チームの精神力、そして補欠の身でありながらも腐らずに地道に準備をしていた五十嵐選手の心意気、素晴らしいじゃあーりませんか!ニッポン、がんばれ!

 広報委員会委員 奥田 穣司 
(2008.8.11データ更新)